「がんばろう東日本!!
   脱原発社会を実現しよう!」
2011全国高齢者集会開催される


 上記のスロー−ガンを会場内の看板に掲げ、9月15曰午後1時から日比谷公会堂において、全国から約2200名の参加者で開催された。 一昨年は鳩山新内閣発足前日に、昨年は民主党代表選で菅氏が当選した次の曰、そして今年は野田内閣が発足してまもなくといったように、この高齢者集会の開催時は、政権の節目に遭遇してきた。
 冒頭、主催者を代表して今年から変わった阿部安吉退職者連合会長から東日本大震災や福島原発事故にふれるとともに、昨年12月の高齢者医療制度改革会議の最終とりまとめについて、つづいて共催である連合の古賀伸明会長から、「働くことを軸とする安心社会」実現に白けて!とそれぞれの挨拶があった。来賓として政府から厚生労働省の津田弥太郎政務官、民主党から度部恒三最高顧問、社民党から福島瑞穂党首の挨拶をいただいた。この後、基調報告では羽山治美退職者連合事務局長から年金制度や新たな高齢者医療制度、介護保険制度についてのとりくみや今後の課題についての報告があった。
 今年の意見発表は、3・11東日本大震災で被害者が多く出た岩手、宮城、福島の各県退職者連合の代表者から被害の報告があった。最後に「今後とも充実した社会保障制度のもと、高齢者が安心して暮らせる日本、若者が未来に希望が持てる日本、戦争をしない日本、世界平和に貢献する日本、そんな21世紀の日本を目指し、がんばります。」との「集合アピール」と阿部会長による力強い団結ガンバローで一部を終了した。 そしてデモ行進に移った。日比谷公園を出発して、銀座・外濠通り、有楽町・西銀座を経て東京駅手前の鍛冶屋橋まで「シュプレヒコール」で街の人に訴えながらのデモであった。
 集合での福島からの報告は原発事故の悲惨さを強く訴えたものであり、多<の参加者の今日の大きな関心事であった。主催者が用意したゼッケンには「原発はいらない ノーモアふくしま」といったものがあり、デモ行進でもその主旨でのシュプレヒコールもあったが、集合でその点にふれたのは来賓の福島党首のみであった。  (中野渡)


さよなら原発
   6万人集会


 9月19日、脱原発を訴える「さようなら原発集合」が明治公園で開かれた。
 福島からは子連れの親子などが参加者して、何と原発事放後では最大規模の6万人という大規模の集会であった。集合が始まる頃には明治公園の最寄りの駅である千駄ヶ谷駅は大混雑で木−ムからも出られない状況であったということだ。そんなわけでデモ行進の出発まで1時間以上かかり3コースに別れてのデモの時問は2時間以上かかった。沿道から多くの支援の声が上がるデモ行進であった。この集会は原水爆禁止日本国民会議(原水禁)と脱原発への政策転換を求める署名運動「脱原発1000万アクション」(呼びかけ人は内橋克人、大江健三郎、鎌円慧、坂本龍一、澤地久枝、瀬戸内寂聴、辻井喬、落合恵子の皆さん)の実行委員会。 シニア運動の会員からも約20名(含再任・非常勤)が参加した。(中野渡)


9・14地公四単産・地公退高齢者集会の報告

 2011年9月14日(水)午後1時30分から4時30分まで、日本教育会館ホールで700人余の参加で標記集会が開催された。シニア運動から中野渡、藤見、佐々木、山際、三橋が参加した。地公四単産とは、自治労、日教組、都市交、全水道の現役組合で、他公退とはそれぞれの退職者の組織である。9月15日の全国高齢者集会に先立って、現退一致で運動の意思統一をはかる場として設定された。主催者挨拶に続いて来賓挨拶では、退職者連合副会長の大木氏が原発推進を掲げてきた連合とともに今後原発政策の見直しをしていくことを表明、続いて民主党の岡崎氏から野田政権の取り組み方針、杜民党の福島氏から原発を再稼働させない運動の推進などの挨拶があった。
 基調報告で日教組の濱田氏が、社会保証と税の一体改革案を補強し、安心・信頼できる公的年金制度と医療・介護保険制度を確立し、公務員制度改革法案に示された公務員の労働基本権を確立させ、給与削減や定年延長に関わって労イ動条件の維持・改善を要求すると報告した。さらに、持続可能な脱原発社会を実現するための政策と沖縄の米軍基地・自衛隊基地について住民の声や命を第一にした政策を求めると述ベた。 記念講演は「脱原発社会に向けて」と題して、自治労出身で平和フォーラム、原水禁副事務局長の藤岡一昭氏が1時間程度の短時間ながら3・11原発事故から自然エネルギーで地域の自立を目指した社会の建設を訴える力の寵もった講演を行った。戦後日本の原子力平和利用のまやかしと原発の安全神話を、政治家、電力会社、天下り官僚、研究機関が一体となって作り出したと批判し、事故後もGDPを物差しとする成長神話が生き続けていると指摘し、エネルギー政策の地方分権化の必要性を語った。「最悪の核兵器被害を受けた日本が、最大級の原発災害を引き起こした」という氏の言葉には、深い後悔の念とともに脱原発へ向けた強い決意が感じられた。                   (三橋)


日退教関ブロ交流集会開催される

 9月29日、日退教関東ブロックの組織交流合が聞かれた。神楽坂の「ラポール日教済」に関東地区傘下の11の県・高退教が集まり、神高教シニア運動からは中野渡、藤見が参加した。西澤日退教事務局長の挨拶のあと、各単会からの活動報告がなされた。福島県から被災した会員を呼び学習会を開いた静岡退教、福祉にかかわる学習会を地域的に取り組んだ茨城退教、各支部の教研集会に参加している山梨退教、憲法学習合や辺野古村長を呼んで平和学習会を実施した東京高退など活発な活動を行っている単会がある一方、多<の単会会員数の減少が課題になっていることが明らかにされた。群馬、埼玉、千葉の各退教では支部ごとの取り組みの強弱があり、地元でつながりのある退職者少数が加盟する傾向がある。また、日教組の組織か弱い地域は、日退教の動きも十分でないようである。各退教共通の問題点で退職者の把握ができないので会員獲得がスムーズにいかないとの指摘があった。報告の中で栃木退教が現職と退職者の40名で組織化し、連合のメーデーご参加して日教組のビラを配らせてもらう情宜活動をしたというのが印象に残った。
 次に群馬退教邑楽支部のレポート発表があり、全体の報告・発表が終わっての議論に移った。会員増を計る手だてとしては、退職早々の会員に知人を勧誘してもらう、メーデー等の行動時にアピールする、組織の存在を知らない退職者に積極的に情宣する等の意見が出された。
 最後に、今後レポートを日教組教研のように各県が出すようにすることと今年の全国集合に群馬単会以外、静岡退教の浜岡原発レポートを出すことを決めた。そして、東京高退が提案した「君が代斉唱時に教員の起立を義務化条イ列」に歯止めをかけるための団体著名を各単会で取り組むことを確認して集会を終えた。    (藤見)


JAL整備工場を見た

 6月7日の神奈川シニア連合の施設見学会は ゛あの″JALの整備工場である。新田会長以下47名の元気老人一行は、会議室に案内された。簡単なガイダンス後、格納庫を俯瞰位置から縷々説明を聞く。広大なスペースにはジャンボ機が数機固定され、足場に囲まれてエンジンや扉などがむき出しになっている。クレーンが動き、各パーツには作業員が取りついて点検整備作業中である。6000時間飛行毎に詳細点検・検査があるのだという。
ビデ才解説の後、今度はヘルメットを着用して平場に下りての見学となった。機体直近まで近づき横から下からの覗き見は大変興味深く、機体搬入口直ぐ側の滑走路から飛び立つジャンボは迫力があった。門構えといい社内の雰囲気といい、これが更生中の会社?近頃話題を独占している東電はどうなんかなー。
問題:新生JALの“鶴丸マーク”が見られるのは、何時からでしょうか?
 二度目の「羽田国際ター−ミナル」、初めての「船の科学館」も見どころ満載、゛横浜の住人″Y氏は何故か土産に「月餅」を買い求め、喜々として帰路についた。 (地代所)


34名で11万9千円
東日本大震災へのカンパ

 
日退教は被災地域の退教に諸活動支援のためにカンパ活動を展開してきました。
 私たち神高教シニア運動も第二次集約に向けて取り組むためカンパを要請しました。
 34名の会員から11万9千円のカンパが寄せられました。
 岩手、宮城、福島の各県の退教組織へ日退教を通じて渡してもらうごとになります。


会員の今

      震災ボランティア活動に参加して

                                      横山 滋(2004.3)
3月末、M工高シニア仲間のTさんから「ボランティアに行きたいんだけど紹介して!」と電話があった。私も「現地に行ってみたい!」と強く思っていたので、いろいろなルートを探した。いろいろな労働組合やボランティア団体、社会福祉協議会がボランティア派遣を行っていたが、専門的な作業だったり、交通と宿泊は自前で、数日間が必要だったりして、二の足を踏んでいた。そんな折り、横浜で防災研究活動をしているUさんが、「石巻への日帰りボランティア」を呼びかけていることを知った。
4月23日夜、横浜天理ビル前を出発し24日早朝石巻市着、午後4時まで作業しその日の夜横浜に戻る、という行程だった。夫婦で「バスの旅」に出かけるのは初めての経験だが、二人で参加した。雨の中、大型バスは満杯状態で出発した。
 震災後、既に1ヶ月が過ぎていたが、石巻市内は主要道路が確保されただけという状態。
「想像を絶する」という言葉がよく使われるが、倒壊した家屋や折り重なった自動車の山に津波の強大な破壊力を思い知らされた。私の故郷の中越地震や中越沖地震直後にもボランティアに行ったが、「破壊状況」は全<違うと感じた。ボラ・センターで作業服・長靴・マスクなど身支度をする。割り当てられた大街地区の作業は、崩壊した家屋の家財処理やヘドロ掻き作業。水浸しになった家財は見た目よりはるかに重い。製紙工場から流れ出たものという、巨大なロール状の紙などまであった。数人のチームで、家財や瓦礫を運び出し一輪者で廃棄物一時集積所に運搬する人海戦術だ。床下のヘドロを出す作業は、釘を踏まないように注意しながらの中腰の作業。すぐに汗だくになり、マスクが濡れる。ヘドロは真っ黒で、その成分が何かは、全くわからない。海水で運ばれたものであることは、その微かな「潮の匂い」から分かる。テレビの映像では、この匂いと空気は伝わってこない。
家屋の多くは人が住める状態ではなく、多くの住民は避難所暮らしとのこと。一時集積場は満杯状態で、夏を迎へ腐敗が始まると衛生状態の悪化が心配される。
 帰路、津波が襲った田園の「荒涼とした風景」の中に、ポツンと1本の桜が花を咲かせているのがバスの車窓から見えた。津波に洗われた樹木は、精気を失い枯れ始めているのが多かったが、そんな過酷な環境変化にもめげず、花を咲かせようと懸命な桜に、何とも言えぬ「切なさ」と「希望」を感じた。
 石巻ボラをきっかけに、5月に岩手県大槌町に3泊4日のボランティアに参加した。車中泊1泊、花巻市の民家園の古民家に2泊、食事付きの願っでもない受け入れ態勢だ。花巻市は、この大震災の以前から三陸沖の震災に備えた後方支援都市体制をイ乍っていたという。花巻からバスで釜石市を通って大槌町まで約1時間半。車窓から津波が内陸深くまで襲ったこと、地形や道路によって「運命の分岐」があったこと、釜石市内の凄まじい被害状況などを見ることができた。
「ボランティアの注意事項」を度々聞かされた。ボランティアの役割や限界を自覚し被災者の置かれた状況とその心情を理解すること。それは、職場や地域社会の生活場面でも必要なことだ。被災他の復興や再建にはまだ多<の期間と資金が必要だが、解体された地縁や地域社会の「絆」を再形成できるのか。「無縁社会」[都市砂漠]と言われる現代社会。
私たちは、地域社会の「主人公」として分権化を進め、「地域の絆」を本当に必要なものとして感じ、作ろうとしているのか、考えさせられた。ボランティアは、自分たちの姿や生活を見直す機会だ、と思った。